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「またあした」じゃだめ。思い立ったらすぐ行動するんだ


■事業の概要
「福祉工房あいち」2000年1月に設立。56歳の時に、事故で利き手である右手を失った加藤さんが、自らの手で自助具を作り始めたことがきっかけ。デザイン重視、機能はそっちのけな自助具が目立つ中で、工夫を凝らし「シンプルで壊れにくい」自助具・補助具を開発している。その活動がテレビや雑誌で報道され、話を聞きつけた人が遠方からも依頼に訪れる。現在22名のスタッフで運営。


加藤さんはどのような10代を過ごしてきたのですか?

私は農具を作っている鍛冶屋の息子として生まれ、小さな頃からずっと金属に囲まれて育ってきたんだよ。家の仕事は、石炭で温めた金属を叩き、農具を作ること。だけど中学卒業後、私は家族の反対を押し切って旋盤工見習いとして小さな工場に勤め始めた。理由は単純、当時の私にとっては金属を叩くよりも削る作業の方がかっこいいことだったんだ。ただそれだけの理由だよ。けれど家業を継がなかった私に親は大激怒してね、勘当までされてしまった。そんな状況の中、旋盤工見習いとして住み込みで働き始めた私は、朝は誰よりも早く、夜は誰よりも遅くまで工場にいて仕事をしていた。当時は、今のような機械なんてなかったから仕事はすべて手作業。1つ1つ丁寧に、同じものを作り上げていく。だから、覚えることも山のようにあってね。必死になって仕事を覚えたよ。「仏の顔は三度まで」というけれど、仕事を教えてくれる親方は二度までは教えてくれたけれど、三度目は許してくれなかったからね。私は先輩の仕事を目で見て、まねをしながら体で覚えていったんだ。

指を失うことになってしまったきっかけと、その時の気持ちを教えてください。

今から15年ほど前、機械工として働いていた56歳の時だった。私は機械修理中の事故で右手の指を失ってしまったんだよ。50年以上もの間ずっと箸を持ち、利き手として活躍してきた右手を失ってしまったんだ。ショックで頭の中は真っ白になってしまうし、休む間もなく襲いかかってくる右手の痛みでろくに眠ることすらできなかった。やっとのことで右手が完治したものの、利き手を失った影響は想像以上に大きく、食事や着替え、何をするにしても慣れない左手での生活は大変だった。「もう一度、箸を使ってごはんを食べたい」その思いから、私は失った右手の代わりとなる自助具を探し始めたんだよ。しかし、そこで直面した問題は、多くの自助具・補助具がデザイン重視で機能はそっちのけというもの。「これではだめだ」そう思った私は、慣れない左手でペンを持ち、自分のアイデアを図面化して自助具・補助具を作っている工場に持ち込んだ。けれど、答えは「できない」。工場をいくつまわっても答えは変わらなかった。やってもいないのに、なぜ「できない」なんてことが分かるんだ!苛立ちを覚えた私は、こうなったら自分で作るしかない!と自助具・補助具を作り始めたんだよ。

最初の自助具を作るのに、どれくらいの時間がかかりましたか?

最初の自助具を作るのにかかった期間は、半年。最初の頃は、作りたいという気持ちが半分を占めていて、残りの半分は作りたくないという気持ちでいっぱいだった。慣れない左手を使っての作業はすごく疲れるからね。けれど、同時に早く作り上げたい!という思いもあった。とにかく気持ちばかりが焦っていたんだよ。けれど、次第に焦っていても仕方がないことに気づいたんだ。できないのは当たり前だし、まずは慣れるしかない。だったら今は、1年生のつもりで、焦らずに急がずにコツコツと頑張っていこう。まずは作業に慣れていこうと思えるようになったんだ。そうして私は失敗するたびに「なぜ、こうなったのか?」と考え、理由を箇条書きにして改良を重ねて自助具を作り上げたんだ。

今、なぜ人のために自助具・補助具を作っているのですか?

自分に合う自助具・補助具を探して、何軒もの工場に断られる…そんな惨めさを味わうのは自分だけで十分だと思ったんだよ。だから、私は人に自助具・補助具を作り続けている。困ったあげくに私を頼って遠方からやってくる人、かつての自分と同じ思いを抱えている人を追い返すなんてことはとてもできない。それにね、自分にぴったりの道具を手に入れた彼らの笑顔と「ありがとう」という言葉が、道具を作り続ける私の励みになるんだよ。体のどこかに不自由があり、ほんのちょっとの工夫で彼らがそれを乗り越えられれば、彼らも幸せになれるし、彼らの世話をしている人たちも幸せにすることができる。たった1つのシンプルな道具で、彼らや周りの苦しみや辛さを吹き飛ばすことができるんだ。だから、私は来た人の相談にのって、その人に合う道具を作り続けてるんだよ。

僕たち10代にメッセージをください。

やりもしないうちから「できない」と言って物事を諦めてしまわないこと。そして、「また、あした」といって先延ばしにするのはだめだ。今日動かなければ、きっと明日も動かない。だから、何かをしようと思ったらすぐに行動することが大切なんだよ。そうしないと、いつまでたっても前へは進めない。私も最初の自助具を作っていた時、慣れない左手での作業に疲れて、朝が憂鬱でたまらなかったんだ。「ああ、今日もまた続きを作らないと…」とね。やろうと思っても、いやだという気持ちがあるからベッドからなかなか抜け出せない。けれど、ここでくじけたらだめだ!と思い、自分自身にルールを決めたんだ。「朝目覚めたら『今日も頑張ろう!』と三回声にだして言う。そうしたら、ベッドから飛び起きて仕事をしに行く」という他愛もないルール。けれど、その小さな決意によって、私は辛い日々を乗り越えたんだよ。最初は思うようにいかず苛立ちを覚えた左手も、作業を続けるうちに徐々に慣れていった。すると次は、早く道具作りの続きがしたい!と朝が待ち遠しくなった。辛いことでも一生懸命やっていけば辛さなんて忘れてしまうし、気づいたら夢中になっている。だからこそ、スタートは大切なんだ。「また、あした」といって先送りにするのではなく、やりたいことがあるなら今すぐやってごらん。何でも行きづまりなんてないんだから。波瀾万丈でも全ては何とかなるもんだよ。



■プロフィール

「福祉工房あいち」代表
三河のエジソン
加藤源重さん

1935年愛知県岡崎市生まれ。鍛冶屋の息子として育ちながら、中学卒業後には別の工場へ就職。旋盤工見習いとして住み込みで働き、日々仕事に明け暮れる。56歳の時に、仕事中の事故で利き手の指をすべて失い、使いやすい機能的な自助具を慣れない左手で作り始める。シンプルで壊れにくく、工夫が凝らしてある自助具が話題となり、「三河のエジソン」として有名になる。遠方から自助具を作ってもらうために訪れる人もいるほどの人気。

▼0歳
農具を作っている鍛冶屋の息子として生まれる
▼16歳
中学卒業後、旋盤工見習いとなり就職
▼20歳
旋盤や溶接などの技術が生かせる工場に転職
▼56歳
機械工として働いていたが、作業中の事故で利き手であった右手の指5本を失う
▼現在
福祉工房あいちにて、障害を持つ人のために自助具・補助具を製作している

■インタビューの感想

浅野彰之くん
東海高校1年

加藤さんが取材の中で何度も何度も言っていた言葉「人生に定年はない」僕はこの言葉に関心を持ちました。自分も含め人間は誰もが60才になると定年を経験する。そこで一般の人は仕事を止めてしまうのだが加藤さんは人生の分岐点である定年を第二の人生の始点としてそこから数えきれない程多くの発明をなさっているのは本当に驚くべきことであり見習わなければならない事である。日本ではこのような人々が増えていけばもっとレベルの高い国になると思う。自分もこの経験を大いにいかしこれから目標に向かって進んでいきたい。

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